シュレティンガ―・無職

私は無職なのか、それとも。

11月21日であろう 〜ニャオハ〜

わたしはニャオハに決めたのです。ニャオハの最終進化予想で心を奪われたわたしは、ポケモンセンターでニャオハのぬいぐるみを購入することで、ニャオハに対する正の感情を育んでおりました。

でもまだニャオハ出来ていないのです。我が子はサンタさんがニャオハをプレゼントしてくれると、その曇りなきまなこを輝かせ、来るべき日を心待ちにしているのです。それをわたしがニャオハしたいがために、ニャオハを購入して我が物顔でニャオハを見せつけることは情操教育的にNGであり、ニャオハが目指す秩序からは最も遠いところに位置するわけでございますので、わたしはニャオハしたい欲を抑え、心の篝火を見つめ、ニャオハ立つな!ニャオハ立つな!と声なき声を上げるのです。そうしたらニャオハはやっぱり立ってしまい、その雄々しく屹立した姿はわたしを近所の家電量販店に向かわせるだけの加速度を有しており、お店に着くなりニャオハくださいと稚気を帯びた言葉が、言葉がニャオハが。我が子はニャオハに大層喜んでしまい、これはわたしのニャオハだぞ!と威嚇するも失敗。ニャオハで先にプレイされたので、わたしは夜な夜なジャイ子と名付けたホゲータでニャオハを焼いているのです。嗚呼ニャオハ嗚呼。

 

11月18日であろう  〜肉の食べ方を忘れた人たち〜

お久しぶりです。

本業がひじょうにたいへんすごく忙しくて、文章とわたしの人格が混ざり合ってバターになってしまうことを無意識に避けていたのか、ブログのことをすっかり忘れてしまっていた。

でも、きちんとココを思い出して、お久しぶりです。なんて、おしゃまに畏まった挨拶をすると、私の中でそういう儀式が必要だったのかと思ったりもする。人の精神構造はなんともラビリンス。自分を書き残す旅は、これからもゆるうく続くのであります。

 

このお肉はどうやって召しあがるのかしら?

物干し竿みたいな祭壇に干されたキュウリブタを前にして、思わずマリーアントワネットみたいな口調になる。上品な口調とは裏腹、肉が吊り下がるという原始的な情景は、私の食欲テクスチャをすっかりハイエナさんの様相に書き換えて、聞かれてもいないお腹の音を恥じらうグラデーションと混ざり合う。2種のソースに使われる果実についての情報は、もはやわたしの肉欲の泉に波紋をたてるだけの加速度は持ち合わせておらず、ただこの吊るされたキュウリブタをどう召しあがれば良いのかそればかりが気になっていると、それを見透かした店員さんはただ一言「ご自由にお召し上がりください」と添えて脱兎。その瞬間、わたしの心には風が吹いて、そうか自由か。お肉を食べるという行為に作法なんてないことが作法であることを思い出した。いつからわたしはお肉を食べることに作法を求めるようになったんだろう。オトナになったわたしは、お肉に対する作法を手に入れた代わりに、お肉の食べ方を忘れてしまった。これがミイラ取りがミイラになるってことかぁと確信にも似た気付きを得て、わたしの全てがひとつのところへ還ってゆく。トリップしたわたしを現実に引き戻す声は、「このソース、かけちゃって良い?」であって、いやそれは違うでしょう作法がお肉に対する作法がなんにもなってないなと思った。美味しかった。帰りに肉まんをお土産にいただいた。

 

私事ですが、はてなブログ様の日記本に掲載されることとなりました。やったね。せっかくなので、日記祭にも行きたいと思います。

 

 

10月10日であろう 〜コしか書けない〜

わたしが日記を書くことはわたしだけのためであり、究極的にはわたしだけが分かれば良いのですが、何かと読みやすいので日本語で書いている。こう書くとわたしは日本語以外も嗜んでいるようにミスリードされるけど、そんなことは無いです。仕事柄、ちょろっとプログラミング言語は書けるけど。じゃあわたしだけ分かるということは、新しい「わたし語」を作ることに相違ありませんでして、じゃあわたし語って何だよとなりますと、カタカナのコだけで構成される言語なのでございます。この斬新な言語は、コに使われる3つの棒の長さで母音の強弱を表しまして、棒の揺らぎで子音を種別するのです。棒をなみなみにしたらアッハルです。早速書いてみたいのですが、コココココ。わたしのスマートフォンなのに、わたし語はインストールされていません。コがひとつしかないのです。それでもわたしは書くのです。ココココココココココココココココココココココココココココさんココケア。連打しすぎておかしくなりましたが、だいたい言いたいことは書けてます。これで、今日のお昼は中華だよ。なのです。

10月8と9日であろう 〜人間との自然な距離感〜

結局キャンプに行った。うらめしそうに予約キャンセルしたキャンプ場の天気を見ていたら、土日なら雨が降らない予報に変わっていたのです。でも自分から予約キャンセルしたキャンプ場の天気を欠かさずチェックしていて、天気が晴れだと分かったとたんに再度予約するだなんてとんだメンヘラストーカーではないかと思い直し、でもやっぱり行きたいなあという感情の破壊と再生を100万回繰り返して、やっぱり行こう!となった。幸いキャンプごっこはする予定だったので、準備自体は出来ている。ウキウキで寝ようとして、こりゃ明日が楽しみすぎて寝られませんなぁファファファと思った瞬間には寝た。

 

キャンプ場には人間しかいなかった。見渡す限り人。なんとなく、小鳥のさえずりとししおどしみたいにカコーンと薪を切る音がカレーを煮炊きするぐつぐつとアンサンブルする領域だと思い込んでいたけど、東京の我が家よりも隣人との距離感が近かった。キャンプ初心者なので人が多いことに安心しつつも、人間に疲れてここまで来たはずなのに結局人間がいる事に安堵するわたしは、こういう牧歌的な人恋しさを求めていたのかも知れないという二律背反。なんというか、普段の人間社会よりも当たり前にオープンな環境なんだけど、みんな8×8mの空間で完結していて干渉されてない。都会よりも関係が希薄で、でもみんな生き生きとしていて何だか居心地が良い。そして管理棟で売っていた飲むヨーグルトが本当に美味しかった。それだけでこのキャンプは正解だったと思う。

 

でも隣りのサイトの家族にはうんざりした。ずっと奥さんが文句を言っている。なんでこんなテントにしたんだ、手際が悪い、他の家族はもう終わってるじゃんと罵り、子供たちにもずっと邪魔するなとかキレ散らかしていた。何しに来たんだよ、と思う。ばかたれ!みんなすっごいつまんなそうにしてて、これじゃあ陰気が伝染してしまうと思って離れた場所でずっと遊んでいた。子ども達は、飲むヨーグルトと一緒に買った竹とんぼを大いに気に入って、ずっと遊んでいた。回して飛ばす。究極にシンプルなおもちゃはエンタメの完成形であって、ニンテンドーSwitchとは対極の位置にあるはずなのに、息子の心を掴んで離さない。下の子に関しては、もはやただのスロープでずっと笑いながら走り回っており、わたしも子どもの頃は走っているだけで笑い転げていたなぁと気づく。時代の流れでもエンタメの在り方は変わっていなくて、むしろ君臨していた。竹とんぼもだだっ広い原っぱにあるスロープも、ずっとエンタメの玉座で気付かれるのを待っていたのだ。

 

ご飯どきになって自分のテントに帰ると、隣りの家族がご飯を食べながらキレ散らかしていて笑ってしまった。もう本当なんなんだよという気持ちと、これもキャンプの正解なんだろうかと思えるくらし清々しく、風の吹くままにキレ散らかすスタイルは自由の象徴であった。キャンプ場では星が凄く綺麗に見えていて、温かいココアを入れると月に雲がかかったように見える。でもやっぱりうるさかった記憶が勝っているように思えるので、無理に思い出まで綺麗にする必要はないね。本当にうるさかった。迷惑だった。それでも、キャンプは楽しかった。

 

10月6日であろう 〜楽しいの根底にある恐怖〜

最近急に寒くなったように、繁忙期というのも急に来るものなのである。そんなわけで、いっそがしい毎日を送っている。そうなると、楽しみにしていたキャンプごっこも少し億劫になってくる。見たい動画も加入しているサブスクサービスに溜まっているけど、なかなか見れないでいる。積み娯楽状態。多分なんだけど、何もしない時間を求めて、そして何もしない時間の価値が上がっているのだろうなと思う。そうなると、この貴重な時間を使って、様々な楽しいであろう行為をしたときに、楽しめなかったらどうしようという、どうしようもなくつまらない恐怖心がねばねばと足元に湧いてきて、娯楽に向かう足が止まってしまう。よっくないね。良くないんだけど、何もしない時間が大切なのもまた事実なわけで、足元はねばねばだし、目をつむって妄想の秋。

 

でも芸術の秋でもあるわけで、こどもと一緒に粘土で遊んだ。ドラクエのスライムを何個作れるかを競い合って、息子はせっせとラーメンを作っていた。どこまでも自由なその思想は紛れもなく芸術であって、ラーメンとスライムを合体させてホイミスライムになった。久しぶりに粘土をこねくり回してこねくり回して、ふと気がつくと足元のねばねばは消えていて、やっぱり楽しいの根底には恐怖なんてないのかもと思える。わたしはスライムたちを全部合体させて大きなキングスライムに作り変えた。元の粘土の固まりになっただけのようにも見えたけど、わたしがキングスライムだと言ったらそうなのだ。

 

今日の短歌

夢の中

あなたに逢うため

それならば

三度寝だって

素敵でしょうね

10月4日であろう 〜くるくる回るあさ〜

今週のお題「マイルーティン」

やっぱりルーティンなんて大それたものはないなぁ、と思う。そして、ルーティンがないということだけで、何だか正しい教育を受けていないオトナのように感じてしまう。ルーティンってどこで売っているんだろうか?大きく括るとたぶん人生はルーティンをつなぎ合わせて作られているわけで、わたしにもわたし自身が気付いていないマイルーティンがあるはずなのに、全然ルーティンの支配下に居る気がしません。

今週の題目を見てから、何となくルーティンを意識して暮らして見たけどルーティンのルの字もない。良いなぁ、ルーティン。意地でも探してやろうと躍起になっていると、ルーティンらしきタネを見つけた。わたしの朝の行動である。

 

・朝起きて冷蔵庫に常備している500mlの炭酸水を開ける。

・たまご焼きを作る。砂糖はたっぷりと、隠し味はマヨネーズ。

・水筒をたくさん用意する。みんなはお茶。いちばん小さい水筒には、自分用のカフェモカを用意する。

・顔を洗う。化粧水でビチャビチャにする。

・ブルーベリー色のザリガニにご飯をあげる。

 

わたしは、朝からいろんなキャップを開けているなあと思った。炭酸水に始まり、砂糖はキャップ蓋のガラス瓶に、マヨネーズはキャップを外すと星の形で賑やかせ、3種類の水筒にはそれぞれ好みの飲み物を、化粧水もザリガニのエサも、キャップをくるくる回すことは、朝のルーティンの始まりだったのだ。恐らく他の人も朝からキャップを回しているんだろうけど、何のキャップを開けるかで、その人の生活がなんだか見えてくるような気がして面白い。朝から練りわさびのキャップを外す人だっているはずだ。だとしたら、わたしのくるくる回る朝は間違いなくわたしだけのルーティンなんだろう。

 

10月3日であろう 〜ぞうさん〜

どうやら初キャンプの予定日は風も強くて雨も降るらしいので、泣く泣くキャンプ場をキャンセルした。キャンセル料金が5,000円かかるらしく、ルールなので仕方ないなと思う反面、何でただの原っぱのキャンセルで5,000円も取られるんだ、という悪しき感情がふつふつと沸騰している。そういう悪しき感情に囚われていると全ての物事に難癖をつけたくなってしまうわけで、お風呂に入りながら見ていた音楽番組で中高生に人気であろうバンドが織り成す、そのせつない歌詞に共感の嵐が吹き荒れるバズ曲が薄っぺら過ぎて、これが深いのなら童謡にある「ぞうさん」の方がまだ愛を的確に表現しているなと思った。昔流行った香水とかもそうだけど、あれもロンドンハーツでやってた狩野英孝さんの50TAとかそういうジャンルの曲だと思っている。本気のギャグソングみたいなやつ。でも、こういう曲が共感されてしまうから、そりゃあ星野源だって売れる曲しか作らないよ。地獄でなぜ悪いの頃の彼を返してくれよと全方面に悪態をつく獣となったわたしは、やっぱりキャンプを諦めきれなくて、空いているキャンプ場を探し始める。けれども直ぐにそういえば雨じゃんと思い出して、ハムスターの回し車みたいにぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。疲れ果て眠るけもの。せめて近場の大きな公園で、キャンプごっこをしようと思う。