シュレティンガ―・無職

私は無職なのか、それとも。

6月3日であろう 〜なんちゃら高原から愛を込めて〜

朝起きると開口一番、「しにたーい。」と呪詛みたいな言葉が、脊髄反射的に放たれる時がたまにある。もちろん、本当に命を絶ちたいとかではなくって、やけどを負った舌がピリピリして食べる際に若干のストレスを感じることとか、お気に入りのソーシャルゲームの新しいガチャイベントで、モーニング爆死したことだとか、第一次猫糞害戦争が勃発していることだとか、そういう直視できない事実に対して、私のこころが均衡を保つための、防衛本能みたいな「しにたーい。」なのだ。

そんな自販機みたいな軽口で、自分の中にたまった”うみ”をほんの少し掻き出して、なまりのような体にムチを打ち、ベッドから這い出てキッチンへ向かう。残りの"うみ"は朝ご飯で浄化することに決めた。にんげんは、朝から美味しいものを食べれば元気になるように作られているのだ。

 

「自然療法」という言葉があるらしい。

自然療法とは、別名「ナチュロパシー(naturopathy)」とも言うらしく、自然のものを使いながら、その人が持っている「自然治癒力」を引きだしたり、サポートをしたりすることで、身体や心のバランスを整えていく療法なんだとか。要は適材適所なんだと認識する。たまに部屋を真っ暗にして、アロマキャンドルを炊きまくる時にパイプオルガンのBGMをかけると闇の儀式っぽくなって気分が高揚するけど、波の音とか木々のさえずりのBGMをかけると大変ナチュロパシーな気分になる。であるからして、人類も自然の一部だったんだ!と明日には忘れてしまいそうな薄い悟りを得て、アロマディフューザーでお手軽に花の香りを楽しんだりする行為は、ハンバーガーみたいなジャンク自然療法な気がしないわけでもなく、自然はきっと、そんな些事は気にしないだろなとふわりとした考えが降ってきたときに結局薄い悟りに帰ってくるわたしは、パイプオルガンを流して闇の儀式を執り行なうのだ。

 

でもこれって、たべものにも当てはまるんじゃないか?と、わたしはつねづね考えていて、例えば「〇〇高原のウインナー」だったり「〇〇牧場のヨーグルト」なんかは、ナチュロパシーの力によって食材の持つ「自然うまみ力」を引き出し、よりおいしい食材へと昇華させているのと思うのです。スーパーでも、ウインナーが498円で売っていたら高いなぁ......と感じるかもしれませんが、なんちゃら高原のウインナーが498円で売っていたら、美味しそう!と感じる。「なんちゃら高原」っていうのが大事で、例えばオーガニックという言葉もあるけれど、オーガニックは失礼ながら味がしなさそうなイメージがある。オーガニック・ベーコンだとイギリスの偉人感は強いけど、うま味はあんまり感じない。やっぱり、なんちゃら高原のベーコンをわたしは食べてみたい。