シュレティンガ―・無職

私は無職なのか、それとも。

6月27日であろう 〜モノを落とすということ〜

唐突に鶏皮の話をする人が居たとして、わたしは鶏皮については焼き鳥か、鶏皮ポン酢くらいしか話すことがない。そう考えると、彼ら(鶏皮)または彼女ら(鶏皮)について、恥ずかしながらわたしは何も知らなかったのだ。鶏皮のことを知らない。なんだかそれが、まるで正しい教育を受けていなかったように思えてきて、鶏皮と、恐らく鶏皮が凝着しているであろうモモ肉に対して、鶏皮を繋ぎ止めていた一個の生命に対して、想いを馳せる。嗚呼、鶏皮。鶏皮。要は、道端に落ちている落とし物のお話。

 

ピカソのらくがき

落とし物、というとネガティブなイメージが付きまとうけれど、私のイメージは逆で「ピカソラクカギ」みたいな美しいものだと思っている。昔みた世界の芸術家を特集していたNHKのテレビ番組で「ピカソがメモ帳に描いたラクカギがオークションにかけられて、1億円で落札された」みたいなエピソードがあったことを覚えている。ピカソが友人と電話しながら描いた、手慰みのようなへにょへにょのイラスト。それが芸術だと言われれば、本当にそうなのかも知れない。けれど私が思うに、そのピカソのメモ書きの価値は、作品を作ろうとして生まれたものではなく、無意識化で生まれた、当時のピカソの感情とか、思考のタネみたいなものが垣間見えて居るからなんだろう、と考える。友人と電話しながら描くらくがきだなんて、きっと正しく素敵なロクデモナイに違いない。となると、芸術作品としての価値というよりは、人の思考であったり、想像力そのものに価値があるのだと思うのです。なんだかわたしもくだらない日記ブログを書いている身として、その行いが肯定されている気分になり心地よい。ピカソの芸術には足元にも及ばないわたしのブログについても、もっとキュビズムな表現を心がけたいものである。

人がおとす「落とし物」には、そのピカソのシンパシーを密かに感じている。往来する人の流れにぽつねんとあるそれらに。意図せず、無意識化で道端に固着されたそれらに。名も知らぬ落とし主の、道端に描いた小さなラクガキ。人の残留思念というか、そういった類の美しい何かを感じ取られずにはいられない。よく人との出逢いは一期一会だなんて言うけれど、落とし物もきっとそうなんだと思う。一期一見。さっきの鶏皮の話じゃないけれど、それには鶏皮ぎょうざの"あん"みたいに、ストーリーがぱんぱんに詰まってるはずなのだ。ラピュタだって、パズーが空から落ちてきたシータを拾ったところからストーリーが始まるのだから、あながち間違っていないのでは?と自問自答したりする。

 

オトシモノコレクション

私の趣味の一つに、オトシモノ写真館というのがあって、出かけた先で落とし物を見つけては、写真に収めている。いつかエッセイ付きの写真集を出してみたい。

・飲み会の帰り、道路をふさいでいたシングルベッドのマットレス

・神社の境内にひっそりとたたずむ、未開封の神聖な岩のり

・道のど真ん中に置かれた、謎の銀色アタッシュケース

どれもこれも、ピカソみたいに意味が分からなくて、とても愛おしい作品だ。

 

最近見つけた落とし物の中で、特にメッセージ性が強かったものが、この一枚のふせんシールです。今日はちょっとした用事で某オフィスビルに伺ったのですが、このピンクのふせんからは濃厚で淫靡なオフィスラブのにおいがぷんぷんします。30という数字は何を意味するのか?届けたかった相手様との関係性は?名も知らぬ落とし主への疑問符が、キュビズムみたいに乱反射して、非常にエモーショナル。やっぱり落し物はやめられないのです。ご馳走様でした。