シュレティンガ―・無職

私は無職なのか、それとも。

7月20日であろう 〜おばあちゃん〜

2年ほど前からおばあちゃんは実家からさほど遠くない施設で暮らしてる。本当は施設で暮らす必要なんて無かったけれど、転んで骨折してしまってから、うまく歩けなくなってしまった。実家をリフォームして暮らせるように計画もしていたけれど、そんなの良いよとその時だけはひょいひょい歩いて自分から施設に行ってしまった。とても元気で強い人だった。その時はちょうどコロナ禍ということもあって、地元に帰っても東京から来た人は施設のルールで面会出来ずに、母親にスマートフォンを持たせてテレビ電話で話をしていた。ひ孫の顔も見せると名前をいつも間違えていたけれど、とても喜んでいた。息子もおばあちゃんではなく、おおばあちゃんとすこし貫禄がある名称で呼んでいて、なんだか魔女のニュアンスを密かに感じていた。おばあちゃんのお母さんだから、おおばあちゃん。

 

最近ボケてきたとは母親から聞いていたけれど、今日いつものように母親経由でテレビ電話をしたとき、おばあちゃんはもうわたしの名前を覚えてはいなかった。悲しかったけど、何回も名前を教えて、たわいもない話をいつもより長い時間していた。子どもと散歩中に見つけた綺麗な花について、月には砂漠があるんだとかないんだとか、相対性理論の話とか。言葉はだんだん意味をなくし、太陽は少しずつ位置を変えていく。するとおばあちゃんは急に泣き始めてしまった。おばあちゃんは小さな声で、きっとあなたは大切なひとだけど、名前もなんにも思い出せないの。ごめんね、と。

 

全然良いよ、大丈夫だよ。気にしてないよう。わたしは全然だいじょばない顔で泣いた。あたたかいね、ただの電波なはずなのに、わたしの温度がすこしは伝わっていたんだと思わせてくれる。おばあちゃんの優しさは変わってなくて、おばあちゃんはわたしのおばあちゃんであることは当たり前のように変わっていなかった。このひとは、わたしのことを思い出せなくても、わたしのことを偲んで泣いてくれるやさしいこころを持っているひとなんだ。だから、いいんだ。また忘れてしまったら、また月にある砂漠の話をしよう。写真もたくさん送って、映画に出てくるような殺し屋の部屋みたいに、わたしたち家族の写真を壁じゅうに貼り付けてやるのだ。忘れてしまったら、驚いて口から大好きなハーゲンダッツの抹茶味が出てしまうかもしれない。だから覚えていてね。忘れちゃったら、ふたりで泣きながらおかしな状況を笑おう。