シュレティンガ―・無職

私は無職なのか、それとも。

9月4.525日であろう 〜今日から夏よ〜

人それぞれ、夏を始める儀式があると思う。

海に行くでも、BBQをするでも、フェスに行くでも、何かしらの儀式的な夏スイッチが脳内にあって、それをONにして初めて夏。OFFのままだと、ただの高温多湿なあっつい期間なだけで、夏に昇華されないのです。昇華ってのがすでに夏っぽい。アガれば全部夏なのかっていうときっとそうではなくで、風景がいつもより色濃く、ビビットになることなんだと思う。秋のパープルな夕暮れより、入道雲がもくもくの青空で飲むジンジャエールの方がビビットでしょう。

わたしはここ最近、何だかずっとあっつい期間だなぁって思っていた。フェスも行ったし、海でBBQもした。なんならプールも行った。知らない世界をたくさん見た。それでも夏は来なくって、夏スイッチが錆びついてしまっているのだろうか?なかなか風景はビビットにならず、水彩画の様相をくずさない。そんな時、家族で駅前にある中華料理屋さんにお昼ご飯を食べた。何を食べようか迷っていると、冷やし中華のフダがかかっているのを見つけた。期間限定のはずなのに、周りのフダと同じくらい汚れているそれはトリックアートみたいで、でも確実に夏のおとずれを告げる季語みたいなものだった。ちょっとウキウキして、周りを見回すと誰も冷やし中華を頼んでいなくて、我が家にしても餃子だとかあんかけカタ焼きそばだとか、定番メニューにたどり着いている。見えていないのだろうか?冷やし中華の5文字は、夏を感じ取れないわたしの弱い心が生み出した蜃気楼のようなものなのだろうか?ためしに、あれ見えてる?と聞いてみると、なに?どれ?と言われた。冷やし中華は風景の一部であって、余人には認識できないみたいだ。早く決めなよ、と諭されて、意を決して冷やし中華を頼む。店員は凪。少し間を置いて、しょうゆとゴマどっちが良いですか?と聞かれる。この予定外はまさに夏で、あの冷やし中華の5文字からは決して読み取れない奥深さであり、お店から見た時にこの当たり前であろうやり取りがわたしの求める非日常=夏であり、ちょっとうわずった声で答えるゴマ、というふたことはわたしの手を引いて夏の日差しの白を確かに色濃いところへ昇華してくれました。

久しぶりに食べる冷やし中華は、何だか想像通りの冷やし中華味で、こんな当たり前であたりまえのように煌々とひかる夏スイッチを見ると、大概わたしもアホっぽいなぁと思う。それもまた夏のループ。