シュレティンガ―・無職

私は無職なのか、それとも。

9月14日であろう 〜とげとげタマシー〜

子どもがお絵かきにハマっている。画用紙いっぱいに機関車トーマスの絵を描いていて、上手にトーマス描けてるね、と言うと我が子は「違うよ、これはタマシイだよ」と答える。わたしは「ほぅ」と唸り声。急に人生の果てにある哲学の話をされて、ほぅしか出ないオトナのわたしの、お菓子の包装紙のような薄っぺらい人生観はひどく軽薄であり、それでも山を越え谷を越えてきたわたしの人生は包装紙に包まれたパイの実のようにでっぷりとした恒星であり、タマシイを描いている我が子の太陽系を構成するための、くるくる回る惑星なのだった。トーマスと呼ばれていたはずのタマシイは、確かにトーマスでもあってタマシイでもあった。どちらも同じくらい同じで、同じ質量の価値であった。もう我が子は「そこ」にたどり着いたのかと思うと、たいそう我が子はビッグバンである。トーマス=タマシイを描きあげるた我が子は、タマシイにトゲを生やし始める。わたしは「ほぅ」と唸り声。そうなのだ、タマシイにはトゲが生えるものなのだ。タマシイは純粋だから、純粋なものは基本的に鋭利なのだ。闇も光もすべからずそういうカタチになっているから人に刺さるわけで、原初の美しさであることをみんな最初から解っているはずだったんだ。でも人間はそれを隠してしまうから。もしくは、すっとぼけてしまうから。トーマスはタマシイで、それにはトゲが生えていないように振る舞うから。とりあえず額を買おう。このタマシイをリビングからいちばん見えるところに飾ろう。そう思っていると、我が子は「これトーマスじゃない!間違えてトゲ描いちゃった!」と叫んで現実に帰ってきた。そうなんだよ、トーマスにはトゲなんて生えてないんだよ。そもそもタマシイじゃないんだよ。トーマスなんだよ。タマシイってなんなんだよ。とりあえず、額は買おうと思います。飾ります。