シュレティンガ―・無職

私は無職なのか、それとも。

8月11日であろう 〜わたくし怒りのシロタ株〜

石器時代からの友人が、ヤクルト1000を愛飲しはじめて早3ヶ月が経過したらしい。ヤクルト1000を飲み始めてからというもの、ストレスが感じなくなり、感情はアンファンタジァとなって、乳酸菌シロタ株が体内をドドドと大立ち回するようになり、乳酸菌シロタ株はカウボーイが投げ縄をする要領でバッタバタと悪玉菌を粛清を繰り返すディストピア体内社会を形成したわけで、それを善とすべくヤクルト1000と僕という怪しげなパワーポイントを流布したいから久々にオシャレなカッフェでもいかへん?なんて連絡が来たもんだから、ヤクルト1000こえーって返信をしたら、ヤクルト1000が売っている自動販売機の写真を送ってくるBOTと化したもんですから、やっぱり健康的な人間って何をしでかすかわかんないなぁと偏見1000の御口を飲むヨーグルトで満たして、こういう時にアンタって超ファックですわね!と言えない自分の弱さと強制的に向き合わされた苛立ちとかなしみが螺旋みたいに湧き上がってきたら、なんとなく家中のものを洗濯板で洗濯したい、みたいなおおよそ正解ではない対処療法こそ真実だと、ひな鳥のすり込みみたいな現象ががが。とりあえずものは試しで、汚れものを洗剤をいれた洗面器に入れてふみふみすると、なんとも言えない足の感触が非日常で、ちょっとすっきりした。

8月9日であろう 〜おいとま〜

なつやすみにはたくさんのことがあった。そのことを書こうかな、と思ってブログを開いたけど「甘栗」のふた文字で手が止まってしまう。書きたいことはたくさんあるけど、書けない。それとも、書きたくない?ちょっと考えて、きっとまだわたしの脳内はなつやすみなのだろうと思う。まだなつやすみなのだから、なつやすみを思い出して、ほくそ笑んで、アルバムを整理する必要がないんだろうな。既に日常がカンカン照りで降り注いでいるのに、なんとも夢心地である。ためしにリビングで踊ってみると、陽気なステップは全くもってなつやすみであることの証明であって、手にしたクイックルワイパーはフローリングを乱反射させ、わたしのなつやすみたる道筋を示すことに必至となる。飛んで、跳ねて、ブルーベリーみたいな色のザリガニに美味しいにぼしをあげようとしたとき、脱皮していることに気がつく。そこに気が付いた時、乳白色になったザリガニはそれはもうみるみる大きくなって、入堂雲みたいに日常のカンカン照りを覆い隠す。手に持ったにぼしを太陽で炙って、チョキチョキ上機嫌なつやすみを満喫しているようだ。頭に付けているカンカン帽が非常にうかれぽんち。ザリガニより生まれた日陰は涼しく、快適な陰の空間であるけどやっぱり日常の枠は抜け出せなくて、でもそれは心地よい諦めであり、人生のセーブポイントみたいなものであった。するとお腹が空いてくる。お腹が空くのは良いことだ。わたしには無限の選択肢があって、セーブポイントの安心感からか冒険がしてみたくなる。随分と迷って、散歩がてらに人生初の日高屋に来た。所謂、おひとり様というものである。お店に入るとおひとり様コンシェルジュの紳士に手を引かれ、おひとりさま席に案内された。タッチパネルでレバニラ定食を頼むと、とても大人な感じがした。おひとりさま席は秘密基地みたいに雑多であって、わたしはお腹が空いてくる。お腹が空くのは良いことだ。しばらくすると、バクダン炒め定食大盛りが配膳される。急に辛そうな爆弾が来たのでわたしが困惑していると、すみません間違えました、と持っていかれてしまった。非常においしそうな定食であったので、残念な気持ちになる。4分後にレバニラが来て、それは美味しいレバニラであった。おなかがいっぱいになった夏はまだまだ続く。セミの鳴き声がうるさい。帰りにコンビニでアイスも買おう。夏だからね、しょうがないね。

8月8日であろう 〜箇条書きの日〜

いやデンプァが無さすぎるよ。そう思うのは、デンプァに毒されている証拠なのでしょう。マリーアントワネットちゃんは、パンが無ければケーキを食べたらいいんだとほざいておりまして、デンプァがないなら星を見て、新しい星座を作ろうと思い立ったが吉日。デンプァのない国ならではの楽しみ方で、わたしは人生を謳歌してみせると意気揚々と夜の野を砂浜を駆けていた時、パニーニくらいのサイズの蛾が飛んできて本当に死んでしまって一目散に逃げ帰りベッドの中で妄想三半規管を育むことしか出来ずにおりました。


・船が沈没しかけて、バケツで水をかいていたときに何だかトムとジェリーみたいだなぁって思って笑ってしまった。人は死が近づくとこうして精神の均衡を保つのだなぁと感心していたらいつの間にか生き延びていた。


・妹の旦那さんから何故かプレゼントを貰った。ラッピングを剥がすと、何故か低周波治療器であった。腰を大切にしてください!と元気な声で言われた。よく分からないけど、腰を大切にします!


・真珠のネックレスを作った。デカいカニを捕まえた。ホヤみたいなのを捕まえて水鉄砲にした。人間は残酷だった。わたしは残酷だった。


・旅の主食は麺。


・砂浜をずっと見ていると宇宙だった。小石は惑星のピリオド。波がさらって、おかえりなさい。ただいま。


超閑話休題 〜ヴァケーション特別編1〜

わたしは夢。夢の中で短歌を誦じる。うたはゆめ。ゆめはうた。わたしはさかな。

今朝の朝食の短歌
朝はパン パンだよパンだ 美味しいな
ズンドコドコドコ ズンドコドコドコ

おやすみなさい。

7月29日であろう ~カチカチすいみんやく~

おはようの反対。「おやすみなさい」っていうのは、自分を讃えるための言葉だ。私の中では、美味しいごはんを振る舞う時の「めしあがれ」の類いだと思っている。ふかふかの布団に、ちょっと固めのまくら。さりさりとしいてて、エアコンでよく冷やされたシーツ。お気に入りのインディーズ・バンドのTシャツ。(パジャマ)

しゃかいのあらなみにもまれ、今日を生き抜いた自分のからだを、限界まで甘やかすフルコース。私がいちばん自由になれる時間でもある。自由な私は、入眠前に強い光を目にすることは良くないことと知りつつ、ついついスマートフォンをいじってしまう。別に見たいわけでもない、無味無臭のネットニュースだとかが目に飛び込んでくる。だけど、海の家で食べる「具なし焼きそば」が無性に美味しく感じるように、寝る前の不必要な情報は、妙に孤独感が薄れて心地よく感じる。たぷたぷとスマートフォンをタップする指が、少しずつのろくなるのが分かる。でもたぷたぷじゃ、本当はすこし物足りない。わたしは、カチカチの方が安眠できるタイプの人間なのだ。

 

パブロフの犬的なやつ

社会人なりたてのころ、完全にスマートフォンが普及してきていて、スマホ派が完全にガラケー派を魔女狩りしていた暗黒の時代であった。

わたしもiPhoneを愛用していたのですが、当時お付き合いしていた恋人は、スマートフォンに故郷の村を滅ぼされたのか、と思うほど新しいテクノロジーを目の敵にしていた。そして、いつも私がフリック入力が出来なくてたぷたぷ画面をタップする姿を見ては、「ガラケーに未練があるんだね。ガラケーは良いぞう。」と笑っていた。

当時、私は一人暮らしをしていて、休日には実家暮らしだった恋人がよく泊まりに来ていた。恋人が持つお気に入りのガラケーには、よくわからない熊の腕みたいなストラップが付いていて、中国の漢方にこういうのあるよなあって、よく考えていたのを覚えている。
シングルベッドは二人で寝るには狭かったけれど、背を向ける恋人のガラケーから聞こえるおやすみの挨拶が、カチカチカチカチカチカチカチカチ。恐らく誰かにメールを打っているであろう不規則なリズムがなんだか妙に心地よくって、すぐに眠ってしまう。ガラケーに未練なんて無いけれど、このカチカチ音は必要だよジョブズ。私の中のパブロフが、そう言って眠るのです。カチカチカチカチ。

 

オススメカチカチ南総里見八犬伝

安眠出来るカチカチ音の条件は、以下3つ!!!

1. 声はいらない。カチカチだけ。(超重要)
2. ポチポチじゃなくてカチカチ。(超重要)
3. リズムが不規則であること。(超重要)

この条件を満たした究極の動画がYouTubeにありますので、眠れない夜には是非、お試し下さいませ。

youtu.be

 

 

明日よりヴァケーションを頂きまして、ヴァカンスに行ってまいりますので、そこはデンパァの無い国ですので、しばらく更新おやすみなさい。それでは皆様、おやすみなさいませ。カチカチカチカチ。

7月28日であろう 〜夏のPARCO〜

生理現象というものに真摯に向き合った人類は、トイレというセーフティハウスを作成することに成功した。私がPARCOのトイレに入ると、即なんとも言えない違和感を感じる。トイレには不釣り合いな銀色の円柱形がひとつ。トイレットペーパーホルダーの上部には、ウォールナットの小さな天板が貼り付けられていて、小物を置くテーブルの役割りも兼ねている。そこに、何故かサーモス社製の銀色のタンブラーが置いてあった。氷が溶けにくいやつ。今年の夏のPARCOはこういう感じで行くんだろうか?わたしの夏は、とけにくい。みたいなキャッチフレーズ。それとも、とけないで、夏。の方が行くのかな?

 

こしを下ろして一考。いや、けんにょうだろうか。しかし、私の"にょう"を、こんなタンブラーまで使って、鮮度と濃度を保ちつつ運搬する必要がどこにあるのだろうか。中を除いてみると、中には何も入っておらず、直前まで冷蔵庫に入れられていたのだろうか、とても冷たい。私の"にょう"をキンキンにしたいのだろうか。なめらかな銀色の手を握り、すぐさま思考は宇宙に接続される。キンキン……キンキン………。

そうか、今年のPARCOは、キンキンでわたし。で行くんだな、きっと。

 

帰り際にもう一度トイレを除いてみると、タンブラーは無くなっていた。きっと誰かが、けんにょうしたに違いない。

7月27日であろう 〜わたしの記憶と、肥後もっこすと〜

記憶にぽっかりと三日月みたいなあなが空いていて、その穴は私の約2日間の軌跡みたいなものを鋭利に切り取るためのあなであった。わたしの2日間はそんな月みたいに高尚なものでは決して無くて、月を模したクッキー型みたいな空っぽの日常だったように思える。でも空っぽは可能性を示唆している吉夢であって、クローゼットの一角を開けているのは、まだ見ぬ素敵な洋服に出会うための願望だったりする。わたしはおそるおそる三日月型のあなに入る。あなの縁は記憶のバリみたいなものがあって、触れるとチクチクする。1年ぶりに冷たいプールに入るようなザワザワした感覚でもある。

わたしの記憶の海は、おおよそがシャボン玉で出来ていて、鈍色に光る宇宙であった。良さげな形のシャボンを手に取ると、ぱちんと割れて「肥後もっこす」のキーワードが出てくる。わたしは肥後もっこすって何だ?と思う。他のシャボンも試してみるけど、「肥後もっこす」しか出てこない。そうこうしているうちに、記憶の底に着く。二日間の記憶は思った以上に浅かったようで、上を見上げると今朝食べたたまごサンドが太陽みたいに光っている。足元にはジュラ紀にあるぜんまいみたいな草がニョロニョロと生えていて、ひとつ引き抜くと「肥後もっこす」のキーワードが出てくる。わたしは肥後もっこすって何だ?と思う。それからというもの、ぜんまいを抜いては「肥後もっこす」、壁につながっている聴診器に耳を当てると「肥後もっこす」、宙に浮かぶ郵便ポストには「肥後もっこす」しか入っていなかった。わたしは肥後もっこすって何だ?と思う。記憶から引き上げたわたしは、画用紙いっぱいに「肥後もっこす注意」と書いて、三日月型のあなをぺたりと塞いだ。よく分からないけど、時間がたてばこの記憶も、梅酒みたいにまろやかな琥珀色になるのだろうか。