シュレティンガ―・無職

私は無職なのか、それとも。

7月27日であろう 〜わたしの記憶と、肥後もっこすと〜

記憶にぽっかりと三日月みたいなあなが空いていて、その穴は私の約2日間の軌跡みたいなものを鋭利に切り取るためのあなであった。わたしの2日間はそんな月みたいに高尚なものでは決して無くて、月を模したクッキー型みたいな空っぽの日常だったように思える。でも空っぽは可能性を示唆している吉夢であって、クローゼットの一角を開けているのは、まだ見ぬ素敵な洋服に出会うための願望だったりする。わたしはおそるおそる三日月型のあなに入る。あなの縁は記憶のバリみたいなものがあって、触れるとチクチクする。1年ぶりに冷たいプールに入るようなザワザワした感覚でもある。

わたしの記憶の海は、おおよそがシャボン玉で出来ていて、鈍色に光る宇宙であった。良さげな形のシャボンを手に取ると、ぱちんと割れて「肥後もっこす」のキーワードが出てくる。わたしは肥後もっこすって何だ?と思う。他のシャボンも試してみるけど、「肥後もっこす」しか出てこない。そうこうしているうちに、記憶の底に着く。二日間の記憶は思った以上に浅かったようで、上を見上げると今朝食べたたまごサンドが太陽みたいに光っている。足元にはジュラ紀にあるぜんまいみたいな草がニョロニョロと生えていて、ひとつ引き抜くと「肥後もっこす」のキーワードが出てくる。わたしは肥後もっこすって何だ?と思う。それからというもの、ぜんまいを抜いては「肥後もっこす」、壁につながっている聴診器に耳を当てると「肥後もっこす」、宙に浮かぶ郵便ポストには「肥後もっこす」しか入っていなかった。わたしは肥後もっこすって何だ?と思う。記憶から引き上げたわたしは、画用紙いっぱいに「肥後もっこす注意」と書いて、三日月型のあなをぺたりと塞いだ。よく分からないけど、時間がたてばこの記憶も、梅酒みたいにまろやかな琥珀色になるのだろうか。