シュレティンガ―・無職

私は無職なのか、それとも。

9月8日であろう(閑話休題)

ブログというか日記のルールを変えます。

どにちはあそんだりねたりおうちのことをしますので、閑話休題は金曜日!

 

ニートであろうと無職であろうと有職者であろうと脛かじりであろうと、神は人間を休ませるために土日祝日を作られたので、こどももおとなもおじいさんもおばあさんも一回休みの閑話休題です。

 

道端でマット?を脚立にのせて乾かしているのが、なんだか子馬の兄弟みたいで大変可愛らしいの一枚。シュミラクラホースと名付けましょう。主食はダイソン。大きくなると、毛がふさふさになって足も伸びる。脚立あつかいすると喜ぶ。じめんタイプ。

9月7日であろう 〜火吹き子〜

下の子の口まわりが何だか全てを破壊し尽くすオレンジのニュアンスで、近づいてみると小さな炎を吐いていた。呼吸するたびにゆらめくそれは、あまりにも美しい明確な殺意で、人々のまわりを明るく照らす殺意とは真逆の希望的何かであった。わたしの子は口から火を吹きながら、プラレールの線路を組み立て、電車で寿司を運ぶことを生業にしている。最近じょうずにおしゃべり出来るようになってきたのだけど、今日は言葉を発すると、ぼうぼうと口元の炎がにわとりみたいにがなり、それにかき消されてうまく声が聞こえない。自身のおかれた状況を知ってか知らずか、我が子は、ぼうぼう言いながら線路を指差し、何かをわたしに訴える。わたしは線路の作成を手伝おうとトンネル山を設置するが、その瞬間、口元の火力はいつか見たカムチャッカ半島で暮らす火吹き鳥みたいに大きくなり、わたしの設置したトンネル山を吹き飛ばした。どうやら怒っているようで、ぼうぼうと炎をあげてトンネルを指差している。わたしはお詫びにと、たまごボーロを口に入れてあげる。たまごボーロは口にする前に、炎で消し炭になってしまった。炎は気流を生み、花瓶に生けてあるカサブランカを可愛らしく揺らす。万物は炎に生かされているのだと悟り、わたしはひと息つくために、バニラ味のうずまきソフトを冷凍庫から取り出した。うずまきソフトは妖艶な冷気を放っており、何だか炎の形をしていることに気がつく。ひとくち、口にするとなんとも言えない到達感に包まれて、それを見た我が子もぼうぼうと興奮し、アイスをねだる。あなた火が出てるじゃない、と思いながら口元にアイスを近づけると冷気に押されて、炎は消えて無くなってしまい、我が子はアイスに文字通り夢中となった。わたしはふたたび冷凍庫から、今度はチョコレート味のうずまきソフトを取り出した。親子のアイスタイム。大人だけが、2種類のアイスクリームの味を楽しむずる賢さを持っていた。

9月6日であろう 〜美食ブロガーとみかんゼリーと〜

これは!なんと!!(ぴしゃごろん)

わたしの脳天にいなずまが走る。ひとくち食べただけでこの世の摂理がわかってしまう、圧倒的に美味しいみかんゼリーです。嗚呼、なんて美味しいみかんゼリーなのだろうか。凄いみかんがゴロゴロしていて、まるで本物のみかんを食べているような錯覚。なんていうか、すじこくらい美味しい。わたしは、すじこが大好きであるからして、すじこくらい美味しいというのは最大限の賛辞である。みかんを取り囲むゼリー状のゼリーが乱反射して、みかんの世界観をキュビズムで光る波打ち際のルナティックなやつでさぁ。とにかく、これは美味しいみかんゼリーでした。

 

 

 

今週のお題「おすすめブログ紹介」

商品を紹介できる人って凄いなぁと思う。

友人から貰った美味しいみかんゼリーを食べたとき、美味しいなあという感想しか浮かばないし、美味しい以外になにがみかんゼリーを正しく褒め称えるのだと思ってしまうわたしは、つくづくそういう才能が無いのだなぁと思う。昔、世界中の有名レストランで食事をする美食ブロガーのドキュメンタリー映画を見たことがあるけれど、その人たちも食事中は「美味しいなあ」しか言ってなくて、いざそのお店を自身のブログで紹介するときは、食事の内容をそりゃあもう絢爛な言葉でつづっていて、コイツらは話を盛ってるじゃないか!と思った。だって食事中には「美味しいなあ」しか言ってないじゃないかと。それが生の感想であって、料理に対しての最大限の賛辞じゃないかぁ、と。

でもブログを書き始めて思ったことは、あれは情報のドレスアップなんだなぁ、と理解したのです。元々可愛くて、継母達にいじめられていた灰かぶりを、みんなが目につく舞踏会に送り出して、シンデレラにしてあげる行為なんだと。そのスキルは魔法そのもので、だからわたしはコレといったブログではなく、情報系ブログ書く人みんな凄いなぁと思います。そしてぜひ、わたしの食べたみかんゼリーを食べてみて欲しいです。絶対「美味しいなぁ」しか言わないのだから。

 

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特に誰とかないのですが、わたしへのバトンはいつでもウェルカムです。美味しみかんゼリーの記事を書かせていただきます。

9月5日であろう 〜努力する猫とPUMAのサコッシュ〜

猫をみょーんと長くして、マフラーみたいに巻いているおじさまがいた。たぶん何処ぞの王族なんだとお見受けします。猫はとてもリラックスした様子でみょーんとしている。ファッションとは自己の表現であって、時には寒い時期でも薄着をして、あっつい時期には厚着をして、そういう超個人的な良いベクトルの虚栄心の上に立っている美であるんだけども、いま我慢してるのはどちらかというとみょーんとしている猫ちゃんであって、ほんとうは水を掻く白鳥のような努力を課しているのではないかと心配になると、わたしの疑念に呼応するようにおじさまは胸ポケットからちゅーるを取り出してペロペロさせていて、これ資本主義だ!!ってなった。やっぱりご褒美のために生きているんだなわたしたち動物はと強く思う。わたしの頭の上に巣を作っているアグリーペンギンにも青々としたブルーベリーを差し上げるけれど、ペンギンは首を横に振り、トキシラズを要求するのである。代わりにブルーベリーを頬張り、頭の上のアグリーペンギンをあやし、今日は新しい会社用のカバンを探していた。柔らかいレザーでリュックサックで、アンコウくらいのサイズのちょうど良いやつを。途中、危うくセカンド冷凍庫を買うところであったけど、ギリギリ耐えて最終的に小さなサコッシュを買った。完全なる一目惚れの完敗であった。お財布とワイヤレスイヤホンとエコバッグくらいしか入らない小さなサコッシュ。よく見るとPUMAなのが大変可愛らしい。わたしは満足した。わたしはとても満足した。新しいサコッシュを持って出掛ける想像をしたとき、頬を撫でる風が心地よいことに気がつく。それはしあわせな気づきで、新しいサコッシュがもたらした気づきであった。

9月4.525日であろう 〜今日から夏よ〜

人それぞれ、夏を始める儀式があると思う。

海に行くでも、BBQをするでも、フェスに行くでも、何かしらの儀式的な夏スイッチが脳内にあって、それをONにして初めて夏。OFFのままだと、ただの高温多湿なあっつい期間なだけで、夏に昇華されないのです。昇華ってのがすでに夏っぽい。アガれば全部夏なのかっていうときっとそうではなくで、風景がいつもより色濃く、ビビットになることなんだと思う。秋のパープルな夕暮れより、入道雲がもくもくの青空で飲むジンジャエールの方がビビットでしょう。

わたしはここ最近、何だかずっとあっつい期間だなぁって思っていた。フェスも行ったし、海でBBQもした。なんならプールも行った。知らない世界をたくさん見た。それでも夏は来なくって、夏スイッチが錆びついてしまっているのだろうか?なかなか風景はビビットにならず、水彩画の様相をくずさない。そんな時、家族で駅前にある中華料理屋さんにお昼ご飯を食べた。何を食べようか迷っていると、冷やし中華のフダがかかっているのを見つけた。期間限定のはずなのに、周りのフダと同じくらい汚れているそれはトリックアートみたいで、でも確実に夏のおとずれを告げる季語みたいなものだった。ちょっとウキウキして、周りを見回すと誰も冷やし中華を頼んでいなくて、我が家にしても餃子だとかあんかけカタ焼きそばだとか、定番メニューにたどり着いている。見えていないのだろうか?冷やし中華の5文字は、夏を感じ取れないわたしの弱い心が生み出した蜃気楼のようなものなのだろうか?ためしに、あれ見えてる?と聞いてみると、なに?どれ?と言われた。冷やし中華は風景の一部であって、余人には認識できないみたいだ。早く決めなよ、と諭されて、意を決して冷やし中華を頼む。店員は凪。少し間を置いて、しょうゆとゴマどっちが良いですか?と聞かれる。この予定外はまさに夏で、あの冷やし中華の5文字からは決して読み取れない奥深さであり、お店から見た時にこの当たり前であろうやり取りがわたしの求める非日常=夏であり、ちょっとうわずった声で答えるゴマ、というふたことはわたしの手を引いて夏の日差しの白を確かに色濃いところへ昇華してくれました。

久しぶりに食べる冷やし中華は、何だか想像通りの冷やし中華味で、こんな当たり前であたりまえのように煌々とひかる夏スイッチを見ると、大概わたしもアホっぽいなぁと思う。それもまた夏のループ。

超9月1日であろうハイパー 〜冬眠から目覚めたくま〜

人類の悪意みたいなものを石英みたいに固めてたその中で、ミノムシみたいに縮こまっておりました。その空間はいわゆる普遍的な人間活動と呼ばれるペンペン草も生えない荒れ果てた荒野と、無職/ニートと呼ばれる肥沃な大地とのちょうと[はざま]でありまして、わたしはそこから目を光らせ、人類の悪意を見つけては恐ろしくなり、みのを石英で強化させ、自身と向き合うという大義名分を掲げてはヨギボーのような柔らかくふわふわとした甘えを溜め込んでおりました。次第にわたしは目を閉じて[はざま]の観測さえも怠惰するとたちまち肥大したヨギボーは意志を持ち、反乱よろしくわたしごとみのの外に追いやろうとするものですから、悪意の石英がちくちくとたまりません。たまらず外に出ると四百年は経過していたのか、高層ビルが立ち並ぶ近代的なディストピアになっておりまして、聡明な読者様におかれてはもうお気づきかもしれませんが、要は何を言いたいかというと職場に復帰しましたよね、というお話でございます。

 
 
新しい女性社員が増えていて、わたしよりも2歳年下なのですが、一人称がボクで初めて現実世界でボクっ子を見たわたしは何だかとてもファニーな気持ちになりました。何だかとても、ファニーな気持ちになりました。いろいろと感じたことはあるのですが、いざ文章にしたためようとすると全部ファニーに変換されるので、ようやくこの感情が嫌悪であると理解しました。この感情は大切に育みたいと思います。
久しぶりの復帰なので、仕事が終わってみんなで食事をすることになった。オシャレな居酒屋でボクっ子とFIREの話をして、将来は田舎でピーマンを育てながら生活をしたいという話をした。堅実なボクっ子だなぁと思う。ピーマンも苦いのに食べれて偉い。わたしは何がしたいのだろうな、何だか違うジャンルのゲームというか、ある種の疎外感を感じる。誰も手をつけていないセロリスティックをかじると、ピーマンみたいな味がした。40代後半の上司とボクっ子が席を立ち、店の外に出て行ってしまって5分ほど。ちょうど家族から電話があったので、私も店をでる。この居酒屋は路地の奥にある隠れ家的なお店で、まわりは薄暗く、人通りも少ない。お店の入口でぼうと光る提灯が、どこかの国のおばけみたいにゆらゆらゆれている。店の前で電話するのもはばかれるので、ちょいと脇に入ると、店の裏手に続く細い通路があって、そこで上司とボクっ子が尋常じゃないくらいいやらしい行為をしていた。わたしは、うひゃああと叫び声を上げた。人はびっくりの許容量を超えたとき、うひゃああと声を上げるのだ。バビョーンと吹き飛ぶわたしと2匹のいやらしいガマガエル。もう仕事したくないなぁ。