どんな世界にも「すき」と「きらい」がある。わたしが最近ハマっている『Vtuber』の界隈にも、その絶対的な2択はもちろんあって、色々なSNSで、彼ら/彼女らは「すき」と「きらい」の渦中にある。いわゆる「きのこ・たけのこ戦争」みたいなものが毎日のように起きていて、それだけ世に浸透してきている、と言えば耳障りは良いのかもしれないけど、やっぱり自分の好きな方々を交流する場が、紛争地帯みたいになってしまうのは非常にロシアな気分になってしまう。きらいならきらいでそこで完結してしまえばいいのに、どうして「きらい」から「アンチ」に進化してしまうのだろうか?
わたしは、Vtuberさんに送るスパチャは、一種のラブレターだと思っている。
ラブレターを書いた人なら分かるのと思うのですが、愛する人に渡す前までは、いかずちのような熱情が、ハリケーンの様に道行くものをなぎ倒し一直線に進んでいき、一切の衰えを知らず愛愛愛あい愛。ドバイにある超ど級の建築物みたいに、人類の英知をかき集めて作られた、非常にけったいでこっぱずかしい文章なのだ。その後、マグニチュード58.0クラスの激しい動機が、体をちぎらんとする程にこみあげてきて、インドの古い山奥にある銅像みたいな顔で眠れない夜を過ごす。これがわたしだけの体験談なのだとしたら、私はもう。もう!
愛というのはグミの様に、普段はうまく人間のガワで取り繕われるんですが「きもちわるい」のが正常で、わたしはそれが「愛」なんだと、知ったような口をききたいのです。それは「きもちわるいもの」なのかもしれないけど、本当に純粋で、美しいものなのだと伝えたいのです。相手に伝わるかどうかは別として、ピカソのキュビズムの様にもてはやされて、こうして共通言語となりえるならばそれはもう正解で、芸術だとおもうのです。これは絶対的に愛だと、私は確信しています。伝わる伝わらないが、愛の本質ではないと断言したい。仮に自己満足でも、ラブレターにはマグニチュード58.0のパワーがあるんだと。
わたしにとって「ファン」とは、価値を上げることに喜びを感じる人種だ。
価値を上げるということは、情報のドレスアップ。グラム98円のこま切れ肉でも、素晴らしい料理に変えるえらいひと。そして、ラブレターを送ることが出来るひと。
それに対して「アンチ」は、価値を下げることに喜びを感じている。
価値を下げるということは、情報のドレスダウン。シンデレラを、灰かぶりにする悪いやつ。