シュレティンガ―・無職

私は無職なのか、それとも。

10月1から2日にかけてであろう 〜旅に関する11つの俯瞰的解釈〜

・わたしは○○歳である。そしてわたしは、わたしの生が周期したことによる影響で、この旅を終える頃には○○歳になる可能性がある。

 

・月を表現したギターリフで目が覚める。そうしてわたしは草津に旅立つ。

 

・ソフトクリームは美味しい。道中のBGMであるスピッツにとてもマッチする。

 

草津の宿について1番にしたことは、温泉卓球ならぬ温泉に入る前に一汗かくため卓球をすることである。汗はかかなかった。

 

・湯畑を見た。みんな湯畑を背に写真を撮っていた。わたしはあみあみの排水溝から湯気がでる風景に夢中だった。美しく整備された湯畑よりも、わたしの足元にごうごうと流れる名もなき源泉を愛らしいと思った。わたしの手に持つ焼き団子と相性が良かった。排水溝に引っかかっていた、ガラス細工がワンポイントのヘアゴムが美しかった。

 

・でも、燻製たまごは美味しくなかった。

 

ジンジャエールで酒池肉林。サプライズで出されたケーキのロウソクに中々火がつかない。カチカチとライター音だけが祝福をしている光景が、なんだかサプライズを良い意味でつくりものにしていて楽しかった。

 

・2度目のお風呂。ネコからチーズを奪う遊び。セックス。

 

・朝起きて部屋に備え付けの知恵の輪をもくもくとする。全く解けない。おかげで朝のお風呂の時間が短くなる。知恵のない者へのペナルティーであった。

 

・湯豆腐美味しい。でもカリカリベーコン丼はどうかと思う。

 

・帰り道は酔う。ソフトクリームで回復する。三日月は何か足りない美しさがあって、あの湯畑で嗅いだ硫黄の香りが薄れてゆく。きっと自宅に帰るってこういうことなんだなぁと思う。

9月29日であろう(閑話休題)

ニートであろうと無職であろうと有職者であろうと脛かじりであろうと、神は人間を休ませるために土日祝日を作られたので、こどももおとなもおじいさんもおばあさんも一回休みの閑話休題です。

 

ファミリーマートさんを覗いたら、チョコあ〜んぱんみたいなパンが発売されていた。もう誕生日はこれで良いと思った。わたしが購入したとき、見た目はこんなにふっくらしてなかったけど、温めればこうなるんだろうか?とりあえず色々実験したいから箱で買いたい。お菓子と同じくゴマみたいなのが散りばめられた可愛らしいきつね色はまさにチョコあ〜んパンで、なんだかデジャヴを感じる。ちなみに食べるとそんなにチョコあ〜んパンじゃない。チョコあんぱんっ感じだった。たぶん生地がふかふかしすぎてモサモサじゃないからなんだろう。でもわたしはチョコあ〜んパンを食べているので、頭をかしげて表面のきつね色とつぶつぶ見るとやっぱりチョコあ〜んパンなわけで、やったー!と思ってかじるとあんまりチョコあ〜んパンじゃないので脳がバグる。脳がデジャヴ。

 

9月28.22222222日であろう 〜パイの実みたいなデニッシュ〜

  • パイの実みたいなデニッシュ

ファミリーマートさんから、パイの実みたいなデニッシュが発売された。もう誕生日はこれで良いと思った。わたしが購入したとき、見た目はこんなにふっくらしてなかったけど、温めればこうなるんだろうか?とりあえず色々実験したいから箱で買いたい。でこぼこした可愛らしいきつね色はまさにパイの実で、でも食べるとそんなパイの実じゃない。たぶんデニッシュ生地がふかふかしすぎてサクサクじゃないからなんだろう。でもわたしはパイの実を食べているので、頭をかしげて表面のきつね色を見るとやっぱりパイの実なわけで、やったー!と思ってかじるとあんまりパイの実じゃないので脳がバグる。でも昔の人も、地球はパイの実みたいに平べったい地球平面説を唱えていたのだし、信じるものは救われるというか、地球のはしは滝であった方がロマンチックな気がして、わたしのかじるこのパイの実みたいなデニッシュも、ちゃんとパイの実なんだと思う。脳がついていけてないだけで。奈良美智さんという画家が描いた絵本で「ともだちがほしかったこいぬ」というものがあるんだけど、こいぬはとてつもなく大きくて遊んでくれるひとがいなくって寂しかったのだ。このパイの実みたいなデニッシュも大きすぎるゆえに、パイの実「みたいな」いわれをしてしまっているけど、本当は他のパイの実みたいに一緒の箱に入って遊びたいはずなんだ。そう考えるとなんだか涙が出てきて、わたしはこのパイの実とキチンと向き合う必要がある。この当社比20倍の大きさのパイの実のためにも、もちろん自分自身のためにも。もうひとくちかじるとやっぱりパイの実みたいな味がしてこれはもう食感ですね、あと表面にバターを塗りたくなる。でもお腹いっぱいになる。パイの実でお腹いっぱいになるって、なんてロマンチックなんだろう。わたしの脳内のはしから、滝みたいにお腹いっぱいの概念が流れ落ちていく。デニッシュ生地のせいなのか、コーヒーにはよく合う気がする。パイの実の層からはコーヒーが流れ落ちていくニュアンスだけど、これはしっかりどっしりコーヒーを受け止めてくれる。満たされていく。わたしがぜんぶパイの実になる。美味しかった。美味しかったパイの実みたいなデニッシュ。両手でも抱えきれないパイの実を持って、わたしは今日をおそらく幸せに過ごすのだろう。

 

www.family.co.jp

 

 

ありがとう、ファミリーマート

9月28日であろう 〜脳みそ全部しごと〜

脳に遊びがない。今あたまの中が全部仕事で埋め尽くされており、パイの実ひとつ入る隙間もない。時間もない。暇もない。まるで吉幾三さんの歌みたいな状況になってしまった。みんなどうやって生きてるんだろ、とさえ思う。余暇の部分が生きるなんだから、全部やることならそれは生きてないわけでそれはもうロボットです。わたしゃあロボットです。自宅から会社までウォータースライダーで繋がっていればいいのに。朝起きて、寝ぼけた状態で5キロくらいの長さのハシゴ登って、水着に着替えて、ウォータースライダーで30分くらいで会社に着くんですよ。水のせせらぎは副交感神経をうんちゃかんちゃしてくれるので、ストレスなく出勤できる。流れる水も実はゼリーでさ、お腹すいたら食べれる。1キロ間隔で味が変わって、最初は優しいトマト味とかレモン味。後半はスペアリブ味とかうなぎ味。最後はしめのご飯味。ゴールと共に360度のシャワーに包まれて、べとべとのゼリーボディを流してくれはるんですよ。湯気がもくもくと出て周りからは見えないから着替えもそこで済ませてしまえるんどす。

 

なんだか、はてなスターが見れなくなってる。いただいたスターは全部チェックしていて、どんな方がくれたんだろうかとこっそりお相手のブログを覗きに行くのが好きだったのに、見れなくなってしまった。わたしはスマホ勢なのですが、スマホだけなのだろうか?困ったことにスターをあげることもできない。良いなぁ、と思った表現を讃えることができない。讃えることができない〜♪って讃えることができないミュージカルが始まる。このブログは電車の中で書いていて、誰もわたしが澄ました顔で讃えることができないミュージカルをしているとは知る由もないのだ。

 

9月26日であろう 〜恋のほうれん草〜

会社の後輩君に彼女ができたらしい。

先輩がアドバイスに乗ってくれたおかげです!と、はにかみながら伝える彼の顔はそりゃあもう何かの本でみた蘭の花のように咲き誇っておりまして、わたしは本当に何もしていないのだけど、そういう返答も無粋な気がして、じゃあ今度スタバでも奢ってね、と伝える。三連休の最初の日からお付き合いを始めたらしく、付き合いたての休日というのは、ふたりにとっての甘美なパイの実そのもので、それはもう夢のような時間であろうことは想像するに難しくなく、夜はずっと会話しながら一緒にスプラトゥーン3をやっていて寝落ちしたんです!というエピソードトークがなんだかいやらしい行為に聞こえてしまう。そう考えると彼の笑顔はランではなくて、ラフレシアのような淫靡さが豊潤な秋の実りのようにむくむくと花開いて、言葉を失ったわたしは今度スタバでも奢ってね、と伝えるBOTと化した。すると本当に昼休みにスタバを奢ってくれて大変申し訳ない気持ちになった。最近の子はスタバも奢れて報連相もできて偉い。

 

 

 

今日の日記は短縮版。

9月25.195日であろう 〜実家の食生活〜

実家では栄養素という概念がおおよそ抜け落ちており、久しぶりに会った我が子とその孫をもてなす食事の初手がセブンイレブンソースカツ丼であったため、わたしは戦慄した。ぶぶ漬けを出す京都人の感覚なのだろうか。我が子はソースカツ丼を美味しそうに食べていて、わたしも食べると凄い美味しかった。両親と同居している妹と妹の旦那さんと一緒にハイキューを見ながら食べるソースカツ丼は、大学時代に友人のアパートで開催される宅飲みみたいな感覚を思い出される。味噌汁も出されてそれもまたセブンイレブンであり、とても美味しいなめこ汁であった。次の日は朝から用事を済ませて、晩御飯時に帰ってきたのですが色々食べてきたのでお腹は空いていない。軽いものがいいなぁと思っていたら、大量の焼いたニジマスがまるまる置いてあった。大皿には謎のクソデカ葉っぱが敷かれており、なんだか原始人みたいな食卓であった。米も野菜も何にもない。ニジマスだけが世界の中心であり、我が子がニジマスを釣り上げた武勇伝を聴きながらかぶりつくニジマスは成長の味がした。食後はハイキューを見た。次の日は妹と出かけて、美味しいラーメン屋があるというのでお昼ご飯にラーメンを食べに行った。いわゆる魚介豚骨系のつけ麺で、魚介鬼強めの味付けで東京ではなかなか味わえないとても美味しいつけ麺だったのですが、麺の量が600グラムもあった。いやいやこんなに食べれないよ?と聞いたのだけど、妹はこれくらい余裕だよと笑ってスルスル食べていく。ぜんぶおっぱいに栄養が行っている妹にならい、するすると食べ切ったけど、胃袋ギチギチに詰められたつけ麺により、寝るまでお腹が空かなかったのでコスパいいなぁと思った。正直吐きそうだったけど、妹はおやつにドーナツを食べていた。次の日の朝は、大量のミニトマトが大皿に盛られており、なんなんだこの食生活はと思った。なんなんだこの食生活はと思った。不健康まっしぐらである。この原始人どもめ!次に来た時はちゃんと料理を手伝おうと思います。とりあえず冷蔵庫の奥底に眠っていた、賞味期限2008年の甘酒を捨てた。新幹線に乗るころには立派な口内炎が出来ていた。我が子はとても楽しかったと弾ける笑顔。口内炎にならないといいけど。

9月25日であろう特別編 〜美しい死〜

わたしの実家は中途半端な田舎でして、3泊4日の帰省ツアーをしておりました。中途半端な田舎の何が良いかって、住宅街でクルマも通らなければニンゲンも歩いていない。周りの家には確かにニンゲンが住んでいるんだろうけれど、おおよそ生の気配が感じられない。いつも閉まっているラーメン屋さん、29年間歳をとらない近所の鯉。みずのあぶく。鳥と、草はなと、雲の息づかいしか聞こえないけれど、確かに根付く文明社会が何だか途轍もなく荒廃した世界観で、SFチックな舌触りなのである。だあれも居ない。家の前に出て、新鮮なSFの世界を味わう。地元の天然水を使った瓶サイダーを飲みながら観る入道雲は、チーズとワインみたいな美味しいマリアージュであって、わたしの東京で作られた人としての輪郭を曖昧なものに変えていった。ここは人よりもニンゲンの方がしっくりくる。実家から歩いて3分のところにある小さな公園まで、あたりまえのようにニンゲンは居なくって、公園にはトンボだけが生きていた。我が子はジジとチャーちゃんと家の中で遊んでいるわけで、わたしはひとり、ブランコに腰掛けてサイダーの続きを楽しむ。なんていうか、本当にひとりなんだなぁ。田舎は贅沢だね。ニンゲンに明け渡してない静謐さがあります。すると静謐さを縫ってチュンチュンと鳥の声が聞こえる。チュンチュンですって!チュンチュンなんて、何年ぶりに書いただろうか。チュンチュンは都会には無縁で、それはわたしの住んでいる東京が異常なのか、はたまたわたしの住んでいたこの中途半端な田舎の奇跡なのか分からない。ゆるやかに死んでいくこの場所を、初めて綺麗だと思えた。